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2022.07.12 tue

Sustainability Deep Dive Vol.1 環境をめぐる「価値観」をアップデートするには?

「ビジネスとエコロジー」そして「人間と自然」の関係を考えるうえで、「環境を大事にする」ことは当然のように見えます。でも一方では、それが建前化している現実もあります。環境問題はなぜアプローチが難しいのでしょうか。哲学者の古賀さんをゲストに、私たちの思考と感性をアップデートするヒントを探ります。

Sustainability Deep Diveは、有識者との対話を通じて、いまわたしたちが当たり前だと感じている価値観を捉えなおし、サステナブルな社会の在り方を考えるイベントシリーズです。告知ページはこちら

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環境に対する人間のスタンスを問う学問に環境倫理があります。これは、ルールを設定する規範倫理学と、人生の価値や心の問題を考える徳倫理学に大別されます。SDGsのように国際的な共生の規範を追求するのは規範倫理学、価値観のアップデートを考えるのは徳倫理学の仕事といえるでしょう。

ポイントは、どちらか片方ではなく、この双方が車の両輪のように必要だということです。この点をまず押さえないと、「価値観が変われば大丈夫」という話になりかねません。しかし事態はもっと深刻なのです。

環境破壊を回避できない理由として、「共有地の悲劇」と「幾何級数的成長」という2つの概念があります。それぞれに手ごわいものです。

「共有地の悲劇」とは、地球環境など、複数人が共有する資源を独立した各個人がそれぞれ利用する場合に、その個人にとって、ある資源の利用によって得られる自己の利益がその資源利用によって被る自己の損害を常に上回ってしまうという事態を指すものです。共有地の環境をおもんばかって資源利用を控えたとしても、別の誰かがその分を利用するだけなので、いわゆる「正直者が馬鹿を見る」状態となります。自分が馬鹿を見るくらいなら、最終的に破滅すると分かっていても資源利用を続けざるを得ない。このロジックによって、資源利用(環境破壊)に歯止めをかけることが困難になっています。

一方「幾何級数的成長」で問題なのは、資源利用(環境破壊)の規模は幾何級数的に増大するのに、その資源利用を補償する要素はそれほど増大しないということです。代替技術や代替エネルギー、リサイクル、汚染防止といった環境保護技術がどれほど進展しようとも、それは資源利用の拡大スピードに追い付きません。破壊要因と補償要因の「増え方」がまったく違うので、資源利用の幾何級数的成長を抑制することなく代替手段で環境問題を切り抜けることは不可能なのです。

こうした環境問題の根本要因に対処するには、やはり資源利用や汚染に関する国際的な総量規制が不可欠です。1つの国だけで規制しても別の国で資源が使われるだけなので、国際協調も必要です。人々の暮らし方や価値観にたんに警鐘を鳴らすだけではなく、実効性がある規制をそれぞれのメンバーに強制していく必要があります。

総量的・国際的規制は、実際には、現状の人々の基本的価値観、つまり暮らしの「豊かさ」や基本的人権に抵触します。というのも、それらは限られた資源や汚染可能性の枠内に、人々の暮らしを押し留めようとするものでもあるからです。この規制の直撃を受けるのは社会的に弱い立場にいる人たちです。

この資源分配の問題を「救命ボートの倫理」として鋭く描き出したのが、『サバイバル・ストラテジー』(1983年)の著者ガレット・ハーディンでした。ハーディンによれば、地球環境という巨大な船が沈むときの救命ボートは、乗客全員分ではなく一定数の特権者に限定されるというのです。そこでは、ボートの席を巡る闘争が起こり、席を確保した特権者が船に這い上がってくる人々を拒むことこそ「倫理的」だと主張される。容易に承服しがたい「倫理」ですが、しかし反駁はなかなか難しい。こうした難問が、総量的・国際的規制には潜んでいるのです。このように考えてみると、国連SDGsの「誰一人取り残さない」というスローガンには深い意味があることが分かります。

この局面においてはじめて、価値観のアップデート(徳倫理学)が役割を果たすことができるのです。総量的な規制の中で我慢するのではなく、むしろそのうちに幸福や富を積極的に実現する教育的・自己開発的アプローチですね。

問題は、幸福や富を実現するには資源利用による環境負荷が不可避という従来の快楽(価値)の在り方にあります。だから価値観のアップデートは、例えば「資源消費の少ない有意義な時間消費とは何か」、「いかに飛行機に乗らずに楽しむか」を問うものとなるでしょう。女性に対する教育やエンパワーメントが人口爆発への有効な手段になりうるように、能力や可能性をみずから見い出していく自己教育がその鍵となるわけです。

ここで求められるのは、幸福や富を「便益」ではなく「不便益」に見い出すことへの転換です。世の中に不便なことがあると工夫が生じます。それが自己の感性や知性に新たな可能性を開いていくわけです。その可能性の基礎となるのは共同体を貫く文化的な価値意識です。たとえばIT革命がヒッピー文化、すなわち(優れて西洋的な価値である)自由と民主主義に立脚していたように、イノベーションはそれぞれの文化的伝統からその価値の核心を抽出するかたちで生じるのです。この意味でイノベーションは、人生において何を価値とするかの倫理の問いから切り離すことはできません。

その点で日本は、明治維新とアジア太平洋戦争の敗戦によって伝統から切り離され、文化的な根なし草となっています。その結果、日本のみならず東アジアの国々は効率化・精緻化にのみ技術革新の成果指標を求めるばかりで、いかなる文化基盤を頼りに何を実現しようとするのか、いかなるイノベーションを内発的に起こしうるのかが見えなくなっています。

この問いを考える上で、資源利用がままならなかったにも関わらず、快楽への感受性を研ぎ澄ました前近代の日本文化に参照先があると考えています。とくに注目するのは、世阿弥の言う「幽玄」を本質とする「花」のあり方です。人間における根本問題に「退屈」があり、人は退屈から抜け出すべく資源消費によって肯定的な何かを構築し、そこに快を実現しようとする。これに対して世阿弥は、萎れていく花の姿に風情が現れるとします。そこでは、耳目を引きやすい「時期の花」とは異なる、移りゆきにおける花に快が見い出されています。

これは新しい商品を手に入れたときに瞬間的に感じる快ではなく、むしろ商品が古びていくときに実感しうる価値のありかたといえるでしょう。こうした「花」のあり方は、有名な藤原定家の和歌(新古今和歌集)にも見い出されます。花も紅葉もない、港のさびれた小屋、秋の夕暮れにこそ、「花」の本質、つまり失われゆくものへの独特の風情を見い出すのです。

まさにそこに私たちが依拠すべき価値があります。一方で、こうした「花」のありかたが、現状では経済的価値としてまだ積極的に表現されておらず、商品価値を持っていないことが大きな課題です。

そもそも当時、世阿弥の能は第一級の商品でもありました。伝統文化として祭り上げるのではなく、幽玄な花の商品価値が何だったのか、そこを捉えることが大切です。『風姿花伝』などの中世の物言いは商品の質に関係するヒントに満ちています。「不便益」に見えるモノやコトのうちに豊かな時間と充実を見い出す感性の錬磨、その感受性の開発と充足にこそ、持続可能なビジネスの可能性が残されていると思います。

これまで資源利用に有利な立場にあった人々が、浪費的な資源利用から切り離された快を探求し、かつ、それによって生まれる余剰資源や汚染可能性を、弱い立場にある人々の基本的自由の保障へと振り向ける、そうした資源利用の大転換をなしうるかどうかが、人類が人間らしい姿で生き残れるかどうかを決めるのだと思われます。SDGsとは結局のところそういうことを求めているのです。

(2022年325日オンラインにて 聞き手:山内 泰/大牟田未来共創センター 理事)

古賀 徹 Toru Koga
九州大学芸術工学研究院教授
専門は哲学。近現代の欧米圏の思想を中心に研究を進める。水俣病やハンセン病、環境破壊、全体主義、消費社会など、現実の諸課題に即して思考を続ける一方で、デザインの基礎論の構築を試みる。単著に『超越論的虚構—社会理論と現象学』(情況出版2001年)、『理性の暴力—日本社会の病理学』(青灯社2014年)、『愛と貨幣の経済学—快楽の社交主義へ』(青灯社2016年)、編著に『デザインに哲学は必要か』(武蔵野美術大学出版局2019年)など。

動画再生時間:約95分

00:00:41 GGP紹介
00:05:32 大牟田未来共創センター紹介
00:07:41 イベント本編開始

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