インタビュー
学ぶことは「世界の区切り方」を変えること(前編)
Date: 2026.04.21 TUE
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| 寄る辺なき時代の教育を探る vol.03 人生が旅だとするならば、地図がすぐに変わってしまう時代である。予定していた目的地がいきなり消滅する、地殻変動によりルートが変わってしまうようなことが知らぬ間に起こっている。不安を原動力に、寄る辺を求めた結果、学歴の再生産と未来の準備に子どもたちの時間は消費され、遊びの時間は縮減している。このままでいいのだろうか。 問題意識を確認し、既存の枠組みをはみ出し、ときに亀裂を入れるような教育活動を探すインタビュー・シリーズ「寄る辺なき時代の教育を探る」をGGPと日本総合研究所が共同で企画しました。 vol.03では、教育を「生命性・体験(遊び)」と「有能性・経験(労働)」という直交する2軸で人の成長を分析する、京都大学名誉教授で教育学を専門とする矢野智司氏にお話を伺いました。その両方の能力を育むためには——。 |
話し手:
矢野智司(京都大学名誉教授)
企画・聞き手:
山本尚毅、瀬名波雅子(日本総合研究所)、岡本めぐみ(三井住友フィナンシャルグループ)
(後編はこちら)
左から矢野智司氏、山本尚毅氏、岡本めぐみ、瀬名波雅子氏
有能性と生命性——体験と経験、自己と世界
「体験」という言葉は、通常「経験」としばしば同じ意味に使われていますが、「体験」と「経験」とを、分けて使ってみることにします。「体験」の代表例が遊びなら、「経験」の代表的な例は労働です。
——学校教育では、これまでの偏差値一辺倒から脱して、新たな教育方針をとる学校が増えつつあります。教育学者である矢野さんが現在の社会変革をどのように捉えているのか、また今後の教育についてどのようなビジョンをお持ちなのかをお伺いしたいと思います。
著書『愛と創造の教育学』の中で、功利的に世界をコントロールする「有能性」と、無用なことに時間とエネルギーを惜しみなく費やす「生命性」という概念について語っています。そして、有能性を発揮する「経験」よりも、遊びに代表される「体験」を重視する記述が多くあります。まずは教育の文脈での「体験」と「経験」の違いをご説明いただけますか?
矢野氏
矢野智司(以下矢野) 「体験」を説明するのに最も分かりやすい例は、子どもの遊びですが、大人の体験として散歩を例に考えてみます。
普段、歩く行為は、例えば、A地点から目的地のB 地点に向かって移動するための手段です。ところが純粋な散歩では、目的地へ移動する行為ではなく、歩くこと自体を行為の目的とします。それは、本来は有用に使えるはずの時間とエネルギーを有用でないものに振り替えることになり、有用なことを否定し破壊する行為とも言えます。人はなぜ散歩などするのでしょうか。
A地点からB地点への移動が目的ならば、よそ見をする余裕はありません。 でも子どもを見ていると、道草を食いながら、いつもよそ見しながら歩き、道に落ちているドングリやガラス玉を見つけたりします。そもそも手段のために生きていない。行為そのものを目的として生きています。これが子どもの遊びの特質で、そのプロセスに生起することを「体験」と呼んでいます。
大人の場合も、純粋な散歩では、普段気づくことのなかった、季節の移り変わりや、雨の日の土の匂いや、道のりの細やかな景色が立ち現れてきます。犬好きの人なら、散歩するうちに、どこにどんな犬がいるかをいつの間にか覚えてしまったりします。手段であることをやめ、歩くこと自体を目的とし、歩くことを楽しみます。その目的に我を忘れて没頭したとき、自他の境界線が溶解することが「体験」です。同様に、遊びへの没頭は、遊ぶこと自体を目的にすることで、この自他の境界線の溶解をもたらすのです。
—— 体験が遊びだとすると、経験はどのように位置づけられるのでしょうか?
矢野:このような「体験」に対して、自己と世界とを切り分ける構えを「経験」と呼んでいます。これは、「遊び」に対する「労働」というかたちで対比すると分かり易いと思います。
出所:矢野氏の板書を基にGGP作成
私たちが労働、つまり社会的な行為をしている時は、「私」と周りの世界とには境界線があります。意識的に自己と他者(世界)、あるいは対象となるモノと自分とを切り分け、それに対して何かの目的を実現するために働きかけています。境界を意識して他者に働きかけ、働きかけたものから何かを受け取って、何かの目的を実現するわけです。目的を実現するための行為は、すべて手段となります。
先ほどの例でいうと、歩く行為は移動のための手段となります。これは労働にあたり、生存のためには不可欠なことです。労働を否定する人はいません。むしろ「人間とは何か」を考える時にも、労働という在り方を基本モデルにして、自他を区別することを明確にする「経験」のうちに、人間の本質を見出そうとしてきました。労働(経験)する人間が「真の人間」だということです。
それに対して、散歩や遊びの中で私たちが何かに我を忘れて没頭しているときに、典型的に表れるのが、先ほど述べた自己と他者との境界線が薄れ溶解していく感覚です。スポーツに没頭したり、音楽に聴き入っているときもそうですね。経験とは異なる自己の在り方で、我を忘れてしまう状態で、世界との間に境界線がなくなります。それはすごく自由だったり、愉快であったりすることです。こうした自己と世界を隔てる境界線が溶解してしまう体験を、社会学者の作田啓一さんにならって「溶解体験」と呼んでいます。「体験」とはこの「溶解体験」のことです。
——自己と世界の境界がなくなる溶解体験とはどのようなものでしょうか?
矢野:世界と連続する瞬間に感じる自由や歓喜の感触は感覚として残るけれど、言葉によって語ることができないものです。
それは当たり前で、自他の境界線がなくなりますので体験を意識化して対象化することができないのです。対象化する「私」が存在しないので、言語化できないわけです。この語りえない「体験」の感覚を言葉にして語ろうとするのが、詩人です。その一例として村野四郎さんの「鉄棒」を見てみます。
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「鉄棒」 (川崎洋・高階紀一・藤富保男編『スポーツ詩集』花神社、p.94) |
この詩は鉄棒の体験を語っていますが、「おお」とか「ああ」とか、こうした表現が、溶解体験を正確に表していると私は考えています。「僕は」の出だしで、奇数行では主体としての「僕」が語られています。ところが7行目、「おお 僕はどこへ行く」では「僕」の前に「おお」という言葉が入ります。この「おお」こそ、それまで運動の主体であった「僕」が溶解する瞬間です。この瞬間、「僕」は世界へと溶解して語り得ないから「おお」なんです。最後の行にある「ああ」は一種の放心です。ここもやっぱり自己が世界の内へと消えている瞬間です。 子どもが遊んでいる時に感激して「おおっ!」とか「ああっ!」とか言っているのは、言語表現に未熟なためではなくて、溶解している表現としてすごく正確なものだと思います。こうした言葉は、言葉以前の言葉、言葉以上の言葉で、一種の「根源語」と呼んでよいものです。
この溶解体験には、実はもう1つ別の側面があって、境界を失うことで、「私」が世界の側に呑み込まれて、無に触れて自己を失う恐怖みたいな体験とつながる瞬間があります。深いエクスタシーの体験は、意味の世界を突破して破壊してしまうことがあるからです。
——教育においては、体験と経験は対立するものではなく、その両方が必要ということでしょうか?
矢野:人間の生を簡単に図式化すると、「体験」と「経験」の 2つの直交する軸としてとらえることができます。
出所:矢野氏の板書を基にGGP作成
横軸は「人間化」(有能性・経験)を進めようとする発達の軸。縦軸は、遊びに代表される「脱人間化」(体験)の生命の軸です。
人間化は、世界を功利的な有用性に基づいてコントロールしつつ、その有用性の世界の中で自分を変えていく軸です。有用な経験を通して自己が発達していくわけです。有用性は有能性とつながっていて、多くの人はこの横軸で生きています。そして、大人になっても人は発達し続け、人間化の高次化を実現していこうとします。
でも、もう一方の「脱人間化」(生命性・体験)の縦軸も、十全な人間の生にとって必要不可欠なものです。縦軸の生はそれ自体が目的であるような生命的な次元に触れていく道です。本来なら有用なものに使えるはずの時間やエネルギー、場合によってはお金も、惜しみなく使い果たしてしまう。ゴージャスな生です(ダークサイドへの誘惑の危険性もあります)。こちらは体験ですから、「おお」「ああ」を何回繰り返しても元気にはなっても賢くはならない(笑)。体験は無用で過剰なものです。しかし、発達はしない代わりに、生命的次元に触れるおかげで、自由と歓喜を感じ、発達を駆動する最も基本的な生きていく力とつながっていきます。
「脱人間化」の軸の「体験」は、遊びの他にも、遊びの延長上に位置するスポーツ・音楽・ダンス・芸術などでも見られます。また「脱人間化」は、死・供犠・蕩尽・歓待・エロティシズム・純粋贈与といった出来事とつながるのですが、話が複雑になるので、ここでは「遊び」を中心に話を進めます。関心のある方は、拙著『贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』[*1]を、参照ください。
横軸を促す力を縦軸が補足している関係にあります。だから理想的には縦軸と横軸のバランスがダイナミックに取れているというのが望ましいと考えます。
子どもは基本的に縦軸で生き、大人は横軸で生きていますから、大人にとって子どもと接して共に生きていることは、それだけで自身の縦軸の力にもなるわけです。大人の生は生存をかけた功利的世界(損得勘定の世界)にいつもさらされています。他者も世界のすべてのものも、自身にとって役に立つか立たないかで評価してしまいます。すべては何かのための手段となり、結果として、自身の生も手段になってしまいます。だから、大人にとって子どもは、横軸一辺倒の生とは異なる縦軸の世界を、もう一度生き直すためのすごく重要な他者になります。子どもと共に生きる時間は、大人の世界の区切り方を変えてもいきます。
——縦軸と横軸の力が均等で二等辺三角形を描くべきということですね。でも、教育機関も保護者も子どもの横軸の分かりやすい能力ばかりを重要視する傾向があります。また、横軸は数値化が可能ですが、縦軸の方は言葉にさえしづらい。縦軸の力を一般的に理解されるようにするには、どうすればよいでしょうか?
矢野:親が自分の子どもに対して、有用な知識や能力を身につけて社会的に成功して欲しいと考えるのが一般的ですよね。そうでない人は、よほど変わっている……(笑)。
発達に関しては、発達科学という学問領域があり観察可能なものとされています。計測することもできるし、科学的な用語で説明ができるわけです。 でも「おお」とか「ああ」の生命性の次元の体験は、学問にはできない(笑)。その縦軸を語るための言葉や概念、理論をどのように作るかが、私の研究課題でした。
そのための手がかりの1つは文学作品を例に取りあげることでした。すでに述べたように、詩人は語りえない体験を語るという不可能なことに挑戦してきました。優れた文学作品は、人間存在の謎と関わる体験に触れ続けてきました。そして、もう1つの手がかりは、宗教体験のような特別の体験ではなく、誰もが体験したことのある「遊び」について考えることでした。「遊び」の体験を例にとりあげると、一般の理解は格段に深まります。
ところで、人間の生をこのように「生命性(脱人間化)」と「有能性(人間化)」との間のダイナミズムとしてとらえるとき、従来の学習観も変更されることになります。学習とか学びとかを考えた時には、どうしても知識や情報の理解や、有能な能力や、有用な技術の獲得に目が行きがちです。「有能性(人間化)」の軸ですね。しかし、学習とは知識・能力・技術の獲得であるとともに、「世界の区切り方」の変更でもあります。
ここで述べる世界の区切り方とは、私たちがこの世界を理解するときに基本的に依拠している世界の捉え方(信条)のことで、例えば、「文化と自然」、「人間と動物」、「自民族と他民族」、「大人と子ども」、「我々と彼ら」、「自と他」といった二項対立のことを指します。両者の間には境界線があり、両者を切り分けることで、私たちは自身のことや世界の複雑な事象を理解しています。またこの二項対立では、基本的に前項が後項より優位にあります。動物より人間の方が優位ですし、他民族より自民族の方が優位ですし、子どもより大人の方が優位です。生命性にかかわる学習とは、この両者の切り分け方の変更にかかわります。
大人と子どもの境界——情報の量ではなく世界の区切り方を変える
「子どもと大人という区切り方は、子どもという生の在り方を損なうとともに、同時に大人の生の在り方も損なっているのではないだろうか」[*2]
——世界の区切り方が変わるというのは、どのような事象なのでしょうか?
矢野:例を挙げましょう。ヘレン・ケラーの例です。ヘレン・ケラーの自伝や伝記を読むと、ヘレンは「WATER」を学んだ時、5つのことを同時に学んだと言えます。列挙すると、ヘレンが覚醒し「WATER」と叫んだときに、ヘレンにはつぎのようなことが同時に起こったのです。
①「waterという言葉」を学ぶ。
②「waterとwaterでないもの」という「Aと否 Aの二項対立の構造」を学ぶ。
③「すべてのものには名前があるということ」を学ぶ(すぐれたメタレベルの学習)。
④覚醒した瞬間のすぐあとから、サリバン先生に「これは何か」とモノの名前をつづけざま聞き始めるように、「教える-学ぶ」というサリバン先生とヘレンとの関係を学習する。
⑤ヘレン自身が覚醒のあと「手に触れたものすべてが生命にわなないている」ように思えたと書いているように、ヘレンの認識に新たな次元(生命の奥行き)が生まれる。
(H.ケラー、川西進訳『ヘレン・ケラー自伝』ぶどう社、p.34)
それまでただ身体的に触れていただけの身体的分節化に加えて、新たに言語的分節化が生起したため、生命的次元が立体的に立ちあがり、同時に自己の内に目覚め、世界の区切り方が一新されてしまうということです。「覚醒」という言葉にふさわしい出来事です。
——世界の区切り方の変化は、どのように意識化されるものでしょうか?
矢野:「より深い遊び」というのがあります。 浅い遊びからより深い遊びへの深化。
例えば、 3歳ぐらいの幼児を見ていると跳んだり、くるくる回ったりしているだけで楽しそうです。でも、少しばかり心得のある人が「もっと綺麗に跳ぶ」ということを教えると、幼児はそれをまねて練習を始めたりします。より深い身体的な関わりで自分の体を使い、世界に触れることができるのです。だから、幼児教育を行う人は、より深い遊び方を伝授し、世界の区切り方を教える達人であるべきだと思います。練習を繰り返す「経験」の蓄積が、より深い「体験」をもたらします。
鉄棒の話しにもどるなら、初めて逆上がりができたときのことを思いだしてみてください。世界は一転するのです。鉄棒という道具の存在と、一回転することのできる人のガイドによって、子どもは一回転することができるのです。世界の有り様は変わります。 子どもの現状にあった適切なメディア(道具)の配置と、優れたガイドによって、経験と体験とのバランスをとることで、子どもの世界の区切り方は変わっていきます。
「子どもは自然の中に放っておいたらいい。自分たちで遊びを見つけることができる。」と言う人もいますが、放っておかれるよりも、優れた導き手のガイドがある方が、子どもは深く自然の中に入っていけます。団塊の世代の人はよくわかると思いますが、昔だったら少し年上のお兄さんお姉さんが優れた導き手でした。異年齢からなる子ども集団には独自の「子ども文化」があり、知識や技術として年長者から年少者へと伝達され、自然の中での遊び方もちゃんと学んでいました。 そういう子ども文化が失われてしまっているので、大人の外遊びの熟達者が、子どもに遊び方や森や川での作法を伝授することが必要だと思いますね。 そうすることで、より深く我を忘れて遊ぶことができるようになります。
ヘレン・ケラーの覚醒のように、全体にわたって、生命性に関わる世界の区切り方の変更がなされるのはまれなことです。ですから世界の区切り方の変化は、本人にも気づかれにくいものです。日々のなかで体験に開かれる出来事(遊び・スポーツ・芸術など)を過ごすことで、境界線を動かしていくことが肝要です。
——幼児教育の専門家の重要度がより増しているということですね。
矢野:そうですね。他の教育機関もそうですが、幼児教育は遊びを中心に据えた保育ですので、より頑張って欲しい領域ですね。幼児教育は子どものファンタジーを大切にする教育でもあります。
私の経験ですが、娘が小学校低学年のクリスマスの時にサンタクロースが本当にいるのか疑い始めたことがありました。「お父さんがサンタだと思う?」と聞いてみたら、「お父さんはサンタじゃない」とすぐさま答えました。なぜなら「お父さんは、トナカイの扱い方を知らないから」と。すごく合理的な判断です。少ない知識を基に子どもは世界のさまざまな疑問を判断しています。こうした子どものファンタジーを大人が大切にしたいと願うのは理由のないことではありません。
サンタクロースは、等価交換を超えて返礼を当てにすることなく純粋に贈与する人です(有用性を生きる横軸の生の否定者です)。子どもにとって、よくは知らないが自分に関心を持ってくれて、自分が望むものをプレゼントしてくれる人です。大人から見れば空想にすぎませんが、小さい自分を愛し見守ってくれる誰かがいるというファンタジーは、子どもにとって大切な物語と言えます。アンパンマンが幼児に人気のある理由でもあります。
絵本や児童文学には、そうした贈与(無償の愛)のテーマがよく描かれています。そして贈与(無償の愛)は、鶴の恩返しのように、いつも境界線を越えてなされますので、贈与の物語は世界の区切り方を教えてもいます。
幼児教育の専門家は、子どもに遊び方を伝授し、ファンタジーを育み、この世界の楽しさを教え、この世界の奥行きの深さを示し、この世界の区切り方を教えます。こうした生命性を深める体験を苗床にして、子どもは自身で世界の区切り方を改変し、自己を作り上げていきます。
世界の区切り方を変えるという生の課題は、「大人と子ども」の境界線の問題とつながります。歴史のなかで、子どもという在り方は未熟で大人より劣り、人間というより動物・自然に近い存在と見なされてきました。
2023年に施行された「こども基本法」第2条では、「『こども』とは、心身の発達の過程にある者をいう」と定義されています。私は発達という概念で大人と子どもを区切ろうとするのは間違っていると考えています。大人もまた「心身の発達の過程」にあると捉えるべきだからです。
発達に関して、子どもと大人そして老後の人生観が、図化すると台形みたいに捉えられています。子どもから大人になる時は、右肩上がりに社会で必要とされる有用な能力を高めていき、そのあと発達は止まり維持されることで平坦となり、老化とともにさまざまな能力は衰退し、右肩が下がっていくという台形の図式です。
でも大人は子どものゴールではないのです。大人もどこまでも「発達」するのです。人間の生の変容に終わりはありません。大人はゴールではないのですから、子どもの生も大人になるためのたんなる準備期間ではありません。子どもはその時その時で完全体であり、必死で今を生きているのは、大人と変わりありません。どの時期もかけがえのない等価な時間です。子どもは未来のために生きているだけでなく、現在を楽しむために生きてもいるのです。
この台形で示されるような発達の価値観をやめて、生のあらゆる時期も平等に価値があるとする時間軸で考えたらどうでしょう。
世界の区切り方を解説する矢野氏。
右側の台形は子どもから大人に成長し、やがて老化するという台形の図式。その上の直線は時間軸に沿って人生の区切り方が変化するという概念を示す
——台形的な価値観は、発達科学の根拠になっていると言えますね。人の人生が時間軸の1本の線で表現された上の図は、世界との区切り方が変わる瞬間の点で構成されている。その点の中に、人生を大きく区切るイニシエーション(通過儀礼)があるということでしょうか。
矢野:イニシエーションというのはその通りで、イニシエーションに接することで、生は不連続になるのです。 昨日も今日も明日も同じ時間の連続ではなく、今日を境に別の新たな時間がはじまります。世界の区切り方が変わる度に新しい自己が開かれる。世界が奥行きをもっていると感じられる瞬間、自己も新しい奥行きを持つわけです。
青年期などは、新しい本を読むたびに、新たな世界が開かれる瞬間があると思います。そうすると自分が何か新しい知識によって拡大するのではなく、新しい世界の発見となり、新しい自分が生まれてくる。
——例えば、進路選択は子どもたちにとって人生が不連続で人生の岐路となる場面です。このイニシエーションをなんとか強制的に学校教育の中で作れないのかと思っています。
矢野:進路選択でイニシエーションを作るというのは、新しい発想ですね。 イニシエーションでは、それまでの自己が死に、新たな自己として生まれ変わります。新たな世界の幕開けです。明治以前の社会では、イニシエーションのたびに、名前や髪型や衣服を変えるようなことがなされました。
たしかに、「進路」という未来の人生の選択によって、自己の在り方も世界の在り方も変わるわけですから、自分が生きていく新しい区切り方が生まれていくわけですね。現代のイニシエーションだと言えます。興味深いです。
(2025年10月17日、京都にて、文・写真:有岡三恵/Studio SETO)
*1 『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』矢野智司著、東京大学出版、2008年
*2 『愛と創造の教育学― 境界を開くためのレッスン ―』矢野智司著、世織書房、2024年
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