インタビュー
学ぶことは「世界の区切り方」が変わること(後編)
Date: 2026.04.21 TUE
#ソーシャル
| 寄る辺なき時代の教育を探る vol.03 人生が旅だとするならば、地図がすぐに変わってしまう時代である。予定していた目的地がいきなり消滅する、地殻変動によりルートが変わってしまうようなことが知らぬ間に起こっている。不安を原動力に、寄る辺を求めた結果、学歴の再生産と未来の準備に子どもたちの時間は消費され、遊びの時間は縮減している。このままでいいのだろうか。 問題意識を確認し、既存の枠組みをはみ出し、ときに亀裂を入れるような教育活動を探すインタビュー・シリーズ「寄る辺なき時代の教育を探る」をGGPと日本総合研究所が共同で企画しました。 vol.03では、教育を「生命性・体験(遊び)」と「有能性・経験(労働)」という直交する2軸で人の成長を分析する、京都大学名誉教授で教育学をご専門とする矢野智司氏にお話を伺いました。その両方の能力を育むためには——。 |
話し手:
矢野智司(京都大学名誉教授)
企画・聞き手:
山本尚毅、瀬名波雅子(日本総合研究所)、岡本めぐみ(三井住友フィナンシャルグループ)
(前編はこちら)
矢野智司氏(左)と山本尚毅氏(右)
人新世の課題に立ち向かう「世界知覚器官」と「惑星的思考」
気候変動、自然災害、戦争などの人類全体の未来に関わる重大問題は、人類だけでなくこの惑星に住む全生命の立場から向き合う必要がある。
——近年、19世紀末~20世紀初頭に世界的に注目された教育運動[*1]の系譜にある学校が増えています。新しく勃興する教育機関をどのように見ていますか?
矢野智司:世界的な近代化に伴い資本主義が発展し、その過程で贈与交換によって成り立っていた前近代の共同体が崩壊していきました。相互扶助で成立していた共同体やコミュニティの紐帯が破壊されていく中で、共同体の再建と新しい教育とをつなげて考える新教育運動が19世紀末から出てきました。アメリカの新教育運動の理論的中心人物であるジョン・デューイは、共同体にあった相互扶助の力を学校に持ち込み、学校を新しい共同体の可能性を開くものとして位置づけていました。学校自体を新しい社会とし、そこで未来の市民教育を行うというものでした。
新教育運動以降、こうした教育改革と社会の改造をつなげた考え方は、立ち現れては消えることを連綿と繰り返してきました。市場交換(等価交換)の功利主義がもたらす問題に対する教育の側からの応答だと考えます。
経験(労働)と体験(遊び)の軸で言うと、相互扶助の精神を持った社会的市民の形成とは、両軸の力を併せ持った人を養う教育運動と言えます。今日本で増加している新しい教育は、そういう意味では経験と体験の両方をつなぐ教育の試みと言えるでしょう。
ただ、有能性(横軸)を高めるために、生命性(縦軸)を高めるという考え方になってしまうと、本末転倒です。仕事をするために休むというように、休暇やレクリエーションが回収されてしまいがちです。そういう論理にならないためには、2軸を支えている原理を明確に区別してみることが必要です。
出所:矢野氏の板書を基にGGP作成
縦軸と横軸の関係を明確にするために、体験と経験との関係を改めて説明し直しておきます。
一方で、労働(仕事)をしている時にも、面白くて我を忘れて没頭する瞬間というのがあります(仕事の面白さや楽しさ)。逆に、遊びをさらに深めていく中でも、そこにルールを見出し改変したり、何度も繰り返し練習をしたり、といったように経験に近いことをやっている時間もあります。
例えば、ままごと遊びをしている最中に、遊びの世界を抜け出して、ままごとのストーリーを変える相談をしたりします。お父さん役がいないときには、「出張していることにしよう!」などと筋書きを描いたりします。遊んでいる最中にも、自他の溶解と分離とが起こっているのです。役になりきっているときの声と、役から離れて素に戻って筋書きを打ち合わせするときの声とは、明らかにちがっています。
つまり、具体的な仕事や遊びの中には、有能性と生命性の両方を発揮する側面が混合して起こるということです。知識や技術や技能が高まれば、遊びの質も変わり、より深い遊びが可能になります。そして深い遊びの体験は、知識や技能や能力の高次化を促します。
——養老孟司さんは小学生の頃、自然の多い裏山で遊んで、その自然や珍しい昆虫から学んだという話をしています。[*2]そのような自然から得るイマジネーションを育む時間が必要だと思いますが、現代の子どもはゲームをしたり、デジタル・デバイスで映像を観たり、余白の時間を自ら消しています。依存させる力が強いデジタル・メディアと、親はどのような距離をとればよいのでしょうか。
矢野氏の「試論 生命のメタモルフォーゼと世界教育」を収録した『愛と創造の教育学』(世織書房、2024年)
矢野:木々や花や虫や動物との関わりも含めて、自然から遠ざかることで、身体的な経験・体験の機会が減り、縦軸の力が弱くなっていく可能性があります。とくに体験の世界では、実際の身体を使用して世界と関わることが重要なわけですから、それが低減すると相対的に横軸の影響力が強くなり、マイナス面が非常に強くなると言えます。
デジタル・デバイスが開く世界の可能性を評価しつつも、自然から切り離され、横軸の有用な人間関係だけの世界を生きるのでは、世界はあまりに息苦しくなります。映像やゲームやアニメのような強い刺激があるものに子どもが惹かれている間、親は自由なことができるから楽だし、子どもに全部止めなさいというのは現実的ではありませんが、使用時間を制限させることはできます。また子どもに自然の奥深さをガイドすることもできます。
——その上で、デジタル・メディアとの良い付き合い方はありますか?
現代は、地球温暖化による気候変動、世界的な自然災害やパンデミックなど、1国の力では解決できない世界的な課題があります。また世界各地での戦争など人類全体の未来に関わる重大問題があります。こうした時代は、人類だけでなくこの惑星に住む全生命の立場(惑星的思考)から、私たちは真剣にこの問題に向き合い、人間中心主義に立ち一方的に自然から収奪することをやめ、惑星全体との新たな関係構築を考える必要があると考えています。
歴史が地域史ではなく、人類が共通の課題をになう「世界史」の時代になりました。人類が地球環境や生態系に大きな影響を与える「人新世(アントロポセン)」の課題解決のためには、「文化と自然」、「人間と動物」、「自民族と他民族」、「大人と子ども」、「我々と彼ら」、「自と他」といった他を排除することで成立する従来の二項対立(世界の区切り方)に安住するのではなく、二項対立を超えた「惑星的思考」が求められています。
デジタル・デバイスと接続することで、人類はどこにいても惑星全体の出来事を知ることのできるグローバルな認識手段「世界知覚器官」を得たとも言えます。そのため、遠く離れた場所での出来事でも、瞬時に知ることができるようになりました。この「世界知覚器官」を、二項対立を超える倫理的な「惑星的思考」と結び合わせることが必要となります。そうすることで、人新世の諸課題を解くことができ、革新的な世界の区切り方を見いだせるのではないでしょうか?
——「世界知覚器官」と併せ持つべき「惑星的思考」はどのように培われるとお考えでしょうか?
矢野:現代のように情報化や人工知能(AI)が発達すればするほど、子どものときには情報技術から遠ざけて、体験を深めていく工夫をすべきというのが、AI時代の教育の基本的な考え方だと思います。
こうして話は最初にもどります。溶解体験は自他の境界線は溶解する体験でした。二項対立の他者を排除する論理は、すべて境界線をめぐるものです。その境界線は一見すると自明に思われるかも知れませんが、この境界線は歴史のなかで動いてきました。
ディック・ブルーナの絵本からドストエフスキーの小説世界までを矢野氏が紹介する『大人が子どもにおくりとどける40の物語』
(ミネルヴァ書房、2014年)
「人間と動物」の二項対立の例を考えてみましょう。歴史を振り返れば明らかなように、他民族を動物とみなし人間から排除したりしました。「インディオは人間か」といったことが真剣に議論された時代もありました。だからこそ他者を奴隷にしたり、残酷な仕打ちができたりしたのです。「人間と動物」の境界線が他者を排除し差別や暴力の対象とすることを可能にするのです。しかし、人間と動物との境界は他方で必要なものです。その境界線があることで、食べるものと食べてはいけないものとの区別が可能だからです。世界の区切り方を変えることは、こうした二項対立の境界線の在り方・作り方を変えることを意味します(なくすことではありません)。
溶解体験は「我々と彼ら」との間の境界線が溶解する体験です。「我々」「私たち」と言った瞬間に、「我々」にも「私たち」にも入ることのない「彼ら」=「他者」を排除することになります。共同体の仲間と仲間でない人たち。しかし、こうしたまとまり、「アイデンティティ」は安定した生活のためには不可欠です。仲間の範囲を確認し、その共同体に帰属していることで、安定や安心をえることができます。「我々」を否定することはできません。問題は「彼ら」を排除し差別や暴力の対象にしてしまう危険性があることです。
「惑星的思考」を持つためには、境界線が溶解する体験を持つことが不可欠なのです。溶解する体験を持つことで、境界線を超える可能性を確信することができます。境界線をめぐる課題を知識として知るだけでは不十分です。体験として境界線のない在り方を実際に生きることが必要です。生命性に触れるとは、このことです。そして、遊びは人生の最初に用意された生命性への入り口です。
「世界市民性」と「厄災ミュージアム」
厄災ミュージアムは、特定の社会集団の利害関係から離れて、公平に厄災の『事実の真理』を他者と共に読み、聴き、語りあうことのできる場所。厄災という共通の破局を前にした人類一人ひとりの連帯から世界市民が生まれる。
——矢野さんは、戦争も含めたさまざまな厄災=カタストロフィによる「世界の終焉」に言及しています。そして「世界の終焉」から歴史を問い直し、新たな世界市民を生む教育の課題を挙げています。その教育の場となる「厄災ミュージアム」を構想していますが、どのようなものかお聞かせ下さい。
矢野:人類史に生起した厄災のすべてから、連綿と蓄積されてきた、宗教・哲学・思想・文学・芸術あるいは知恵を収集し受け継ぎ、それらをもとに、私たちの体験し経験した厄災をあらためて考えることのできる場として「厄災ミュージアム」を構想してみました。このミュージアムは、災害や戦争や環境汚染で亡くなった者たちを悼み(人間にかぎらずすべての生命体がはいる)、伝達への意思と努力なしには消滅してしまう、記憶と記録と証言と知恵とを受け継ぎ、さらにそれらを未来の世代に向けて伝達する場となるものです。またこの厄災ミュージアムは、死すべき存在である人間の不幸と深く向かいあい、死者たちと生き残った者たちとがつながりあう正しい作法を学ぶことのできる場、すべての生命の存在を留保なしに歓待し弔う世界市民の形成へと向かう公共的啓蒙の場となるはずです。
このように考えるようになったきっかけは、1995年の阪神淡路大震災でした。発災時、私は宇治に住んでいたのですが、神戸に住む母と兄家族のために水を運ぶことにしました。ある地点までは普通に電車が動いていて、車内も日常の風景でした。ですが電車が不通になっているところから歩きはじめると、家屋が無残に崩壊し、高速道路が倒れ、ガスの臭いが充満していて、普段とは全く異なる異様な光景が広がっているのでした。日常の秩序を作りだしている境界線が破れてしまい、日常の世界(生)と非日常の世界(死)とが隣り合わせになっていて、とても奇妙な崩壊感覚に襲われました。なぜいまこの私たちにこのような理不尽なことが起こるのか。生き残ってしまった私たちはこれからどうすればよいのか。厄災の犠牲者や体験した人たちについて真剣に考えなければならないと思いました。厄災の体験を考えるための手立て、語るための言葉が欲しいと思ったわけです。
先に述べたように、現在、地球温暖化による気候変動、世界的な自然災害やパンデミック、国際紛争など、一国の力では解決できない世界的な課題があります。人類が地球環境や生態系に大きな影響を与える「人新世(アントロポセン)」の課題です。地球規模で全人類と生命の絶滅を引き起こす時代となりました。「世界の終焉」は映画やアニメのなかのお話ではなく現実のものとなりました。
「厄災の教育」は、この「世界の終焉」という破局の瀬戸際に立ちながらも、共同して破局に抗することのできる世界市民の形成という社会的次元の教育的課題と、同時に、受苦の思想やケア思想や他者への倫理といった生命的次元にかかわる教育的課題の二重の教育的課題をもっているといえます。「厄災ミュージアム」は、このような「厄災の教育」を実現するための場として構想しました。
——イメージしている世界市民とはどのようなものでしょうか。またどのような過程で生まれてくるとお考えでしょうか?
世界市民性と厄災ミュージアムについて論じている『歓待と戦争の教育学』(東京大学出版、2019年)
矢野:世界市民の歴史について簡単に触れておきましょう。世界市民が歴史に登場したのは、古代ストア派の「コスモポリタン」という考え方においてです。世界市民は、ヘレニズムの時代のなかで、ローカルな法や正義の伝統を超えて、余所者を排除することない万人の共同体を開こうとしました。
ローマ時代にはストア派と異なるもう1つ別の世界市民の思想が生まれました。それは神の子としてすべての人間を兄弟同胞として共に生きようとするパウロ的キリスト教の思想でした。西欧では、世界市民の思想は、この2つの思想的系譜のなかで発展してきました。そして、近代以降では、普遍的な人間性の尊重を唱えたカントの世界市民主義が大きな役割を果たしました。
カントがストア主義の世界市民論の系譜を深めたのに対して、ベルクソンはパウロ的キリスト教が開いた愛による世界市民主義の系譜を、創造的進化の思想としてさらに推し進めようとしました。ここで述べている世界市民の考え方は、ベルクソンが『道徳と宗教の二つの源泉』で展開した、「愛の躍動」による世界市民形成の考え方に、多くの示唆をえています。
世界市民は、国民国家の国民を形成するために作られた学校教育からは生まれません。国民と世界市民とは連続してはいないからです。今日、良き国民というだけでは不十分で、同時に世界市民でなければなりません。世界市民は、「世界の終焉」という破局を前にした、人類一人ひとりの責任の自覚と全生命との連帯から生まれます。世界市民の自覚とは、前に述べた世界の区切り方、すなわち「文化と自然」、「人間と動物」、「自民族と他民族」、「大人と子ども」、「我々と彼ら」「自と他」といった二項対立の関係を問い直すことにほかなりません。そのためには生命性の軸を太く強くする必要があります。
こうして私たちと子どもとの関係に立ちもどることになります。
教育とは、この世界へと生まれてきた「子ども」という新たな生のはじまりを歓待して、子どもの生命性を深め有能性を高めることを目指して支援することです。それはまた、新たな生がはじまるこの世界の存続を肯定することを通して、世界市民として「世界共和国」への道を模索しながら進むことにほかなりません。それは、幼かった私たちと共に歩んでくれたさまざまな人々のことを思いだしながら、私たちもまたその人々と同様に返礼を求めない世界のガイドとなって、「新しい人」と共にどこまでも進むことです。これは「新しい人」と共に目を未来に向けようとする希望なしにはできないことではないでしょうか。
——世界市民性が芽生えることと、前編でお話いただいた溶解体験は近いことではないかという印象を受けました。
矢野:そうですね。世界市民性の育成は、「惑星的思考」で説明したこととつながってきます。「惑星的思考」こそが、今日の世界市民の倫理と結びついているものですから。その「惑星的思考」は溶解体験によって育まれていきます。そしてそこから世界の区切り方の革新が求められます。
二項対立の境界線をめぐる課題は、他なるものを受け入れる課題とつながります。しかし、他を受け入れると、自己は安定しませんから、どうしても避けようとします。そのためのレッスンが必要です。溶解体験はその基礎となりますが、その上で最上のレッスンの1つは、優れた詩や小説を読むことではないでしょうか。 しかも宮沢賢治の作品のように、通常の理解の仕方では訳の分からない詩や小説を読むと良いです!(笑)。賢治は、「銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行く」とし、究極の宇宙的連帯の根本感情から個人の倫理をとらえなおして、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と語った詩人でした。本気で生きようとすると大変な倫理です。でも賢治はそれを実際に試みたのです。[*3]
仏陀やイエス、世界宗教の創始者たちの言葉もそうした言葉で成立しています。自己の安定した信条(無意識に作り上げた世界の区切り方)を絶えず揺さぶってくる先駆者の言葉は、最初はわけがわからず苦痛を与えますが、その向こう側で境界線のくびきからの解放をもたらし、世界の区切り方を変えてもくれます。そして、優れた詩や小説は、こうした世界宗教とのつながりを維持しています。
この不確実な時代、私たち人類の破局を導いてきた最大の力である経済のグローバリゼーション(功利主義による等価交換の蔓延)とは異なる方向で、世界市民性に向けた教育を模索していかなければならないと考えます。その1つが、幼児期からの遊びの体験を導くガイドであり、自然に奥行きに連続することであり、厄災のレッスンであり、優れた文学作品や芸術に触れることだと思います。
(2025年10月17日、京都にて、文・写真:有岡三恵/Studio SETO)
*1 「詰め込み型」の教育ではなく、生徒の自発活動に基づいた新教育。日本では1920~30年代にかけて大正自由教育運動として広まった
*2 読売新聞オンライン[時代の証言者]なるようになる。 養老孟司〈14〉昆虫仲間 一流ぞろい
*3 宮沢賢治著、「農民芸術概論綱要」、天沢 退二郎編、新潮文庫、2001年、『宮沢賢治万華鏡』p.167
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