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1人ひとりの成長を促す現場から(後編)

Date: 2026.04.09 THU

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寄る辺なき時代の教育を探る vol.02

人生が旅だとするならば、地図がすぐに変わってしまう時代である。予定していた目的地がいきなり消滅する、地殻変動によりルートが変わってしまうようなことが知らぬ間に起こっている。不安を原動力に、寄る辺を求めた結果、学歴の再生産と未来の準備に子どもたちの時間は消費され、遊びの時間は縮減している。このままでいいのだろうか。
問題意識を確認し、既存の枠組みをはみ出し、ときに亀裂を入れるような教育活動を探すインタビュー・シリーズ「寄る辺なき時代の教育を探る」をGGPと日本総合研究所が共同で企画しました。

vol.02では、学校教育の現場から、学校と学びのあり方をゼロから考えておられる、お茶の水女子大学附属小学校教諭の神谷潤氏、学校法人河合塾学園にて新規高校設立を担当する古屋輝周氏に、お話を伺いました。
(前編はこちら)

話し手:
古屋輝周KJ ホールディングス/河合塾グループ 執行役員 価値共創人材育成事業開発部部長 河合塾学園新設高校開校準備室長
神谷潤お茶の水女子大学附属小学校教諭)

企画・聞き手:
山本尚毅、瀬名波雅子(日本総合研究所)、岡本めぐみ(三井住友フィナンシャルグループ)

左から古屋氏、神谷氏、日本総合研究所の山本氏、瀬名波氏、三井住友フィナンシャルグループ岡本

——皆が同じことをやる体育の在り方が前編で話題に上りました。全員が逆上がりをできるようになるべきか……。そこから議論を始めたいと思います。

神谷 努力して逆上がりができるようになるのは良い経験だと思います。でも、一方で、頑張って練習した人が、ついにできた後「もうやらなくていいよね」と言ったエピソードがあります。両方とも努力した結果成功したけれど、逆の経験になったことを重視しています。どっちが正解というわけではなく。
私としては、体育が生涯にわたって運動に親しむことを目指す教科だとしたら、やはり全員に同じ結果を求めるのは違うと考えています。

古屋 ドルトンでは、まず「やりたいですか?」と尋ねると思います。他の生徒と同じようにできるために努力することを重視するというよりは、自分の意思でできるようになりたいと思うこと、思ったらできるまで努力を惜しまないことをサポートするということです。

——体育に限らず、例えば数学が苦手な人は数学をやらなくても良いのかという問題にもつながります。

古屋 確かにそうですね。 ドルトン東京学園では生徒の自主性に任されている部分もあるのでまさにそういう心配をされるケースもあります。ただ、自由度があるからこそ、自分でその自由をどう使うのかを深く考える1つの場として「House(ハウス)」と呼んでいる学年横断のコミュニティがあります。
1から高3までの全生徒を6つの縦割りグループに分け、登校後や昼休み、掃除時間などはこのグループで集まります。そうすると何が起こるかというと、日常的に会うコミュニティの中に、既に留学を経験した先輩がいたり、大学受験に向けて努力している先輩がいたり、イベントの実行委員長を経験した先輩がいたり、後輩からすると多くの教訓を自然と聞く環境にあります。数学をやっておけばよかったとか、アジア研修や留学はどの国が良いとか……。先生や親が言うよりも先輩から聞く失敗談の効果の方が大きいようです。
でも高学年が一方的に上の立場になるわけではなく、距離感が近い中で斜めの関係というか、それが視野を拡げる役割を果たしているように見えます。緩やかなつながりがあるHouseは生徒の居場所を作っていて、人との距離の測り方を学んでいる気がします。その距離感が、前編で話をした共感・傾聴力の醸成につながっていると思います。

ドルトン東京学園には、1年1組などのクラスはなく、6学年の生徒が行事などの学校生活を共に過ごす4~5人ずつの集まり「House(ハウス)」がある。それに加えて、授業を一緒に受ける同学年の集団Lesson Groupの2つのグループに所属する。出所:ドルトン東京学園HP

古屋 人との距離の取り方で重要なのは、縦の関係ではなく斜めであることです。教員も、生徒に対して命令や指示をする関係ではなくて、生徒の学びを支えるけれど、指示する縦の関係でもなく友達という横の関係でもない、ちょうど親戚のおじさんのように「ちょっと話を聞いてもらおうかな」くらいの位置づけで信頼関係を築くケースも多いのではないでしょうか。

神谷 先生が子どもに対して紋切り型の「こうあるべき」を押し付けないことが重要なことだと思います。その子の人生、生き方は自身が考えていくものですから。

古屋 中高生にとって、大人と向き合ってじっくりと話す機会は意外と少なく、本音を喋ることがなかなかできていないと感じます。でもふとした瞬間、ポロッと大切なことを打ち明けてくれたりします。授業や面談より、移動中とかに「本当はこういうことがやりたい」とか。そういう時間や関係を大切にしたいと思います。

神谷 私もあまり1人ひとりと距離を縮めすぎないことに気をつけています。それが相手にとって心地良いかは分かりませんが、自然と権威的な存在として感じられてしまうので、子どもたちがいつ話しかけても大丈夫だと思えるように心掛けています。子どもたちの様子を感じ取りながら、毎日試行錯誤している感じですけれど。

年齢の壁や大人と子供の境界線について考えることがあります。学ぶというのは別に学生の特権ではないし、むしろ異なる年齢の人が交じって学んでも良いわけですよね。ドルトン東京学園のHouseはその壁を乗り越えている例の1つだと思います。
昔学校に行けなかった7080代の方々が、夕方から義務教育の学習を受ける学校(夜間中学)を沖縄で見学して改めて思ったのですが、小学生と年配の方が同じ教室で学んでもよいのではないか……と。
むしろこれからは、世代を問わず、「学ぶ」ことに開かれた学校の在り方が重要になるのではないかと思います。

——これからの教育に関するビジョンや挑戦してみたいことをお聞かせ下さい。

古屋  ドルトンが目指している学校像の先には、校舎の壁を越えて地域に飛び込んでいくイメージがあります。地球市民性の話をしましたが、それを突き詰めていくとやはり校外で学ぶ制度が必要になります。
現在、認可申請予定ではありますが、新設校のドルトンX学園では、環境問題を学ぶために沖縄に数カ月滞在するとか、防災・都市づくりを学ぶために震災復興地域で現場取材を行うなど、興味のあることがあれば現場に出ることができるようになっています。

各現場で様々な社会課題を目の当たりにし、その社会課題に本気で取り組む大人の目を見て話すことで、「さて自分は何をしたいのか?」、「自分は何に心を動かされたのか?」ということを突き詰められる時間を与えることができれば良いと思っています。そうすると、先ほど言った斜めの関係性の中に、地域の人が登場してきて、生徒がいろんな人と触れ合い、化学反応が起こることに期待していますし、自分が何をやりたいのかを考えていくと将来に向けた推進力が自分の中に巻き起こりますから、いわゆる勉強にも取り組む力がさらに湧いてきます。

やはり校舎の内外とか、大人と子どもとか、教員と生徒とか、都会と地方とか、ボーダーをなくしてフラットな関係で世の中を見ることができれば、面白い社会になると思います。

神谷 中高生の段階で学校から飛び出して、海外を飛び回っている大人と一緒に過ごしたりすると、自分はあんな大人になりたいとか、ああいう大人にはなりたくないとか、生き方を考える機会になりますよね。
一方で、大人が一生懸命学んでいる様子を子供に見てもらって一緒に学んだり、何かプロジェクトを一緒にやったり……と、校舎や年齢の壁を取り払うことで得られるものは大きいと感じました。
そもそも、年齢に伴って人が同じように発達するという教育の考え方を変えていく必要があります。それによって、子どもが期待されすぎたり、子供の成長にブレーキがかかったりしていますから。
小学2年生で九九を暗記することになっていますが、高学年になってから習得しても問題ないと思っています。

——でも、自分の子どもが定められた学年で九九を覚えられなかったり、漢字が書けなかったりすると親は不安に陥ります。

神谷 私の座右の銘の1つに哲学者の鷲田清一さんの言葉で「期待しないで待つ」というのがあります。周囲の期待があると、期待する側は自ら期待する方へ導きたくなってしまいますし、期待される側は期待に応じなければ、となってしまうからです。
待つことは大切ですが、期待を手放すことで子どもの成長を受けとめやすくなります。教員なので、通知表を出さなければならないのですが、子どもたちには「あくまでもある1つの尺度で測ったもので、あなた自身を価値付けているものではない」と伝えています。そういう尺度で他者から見える自分を見たとき、自分がどうするかを考えればよいのだ、と。

古屋 先生が待ったとしても、待てない親が多いのが現実ですよね。

神谷 何に焦りを感じるのかを、親も自分自身のことを見つめ考えることが大事だと伝えるようにしています。
その子がいつ何をどう学んだら良いのか、という問いに正解はありません。教師も子どもの成長について共に真剣に考えますが、その子と付き合えるのはせいぜい数年間しかありません。子どもの育ちを長い目で見守り考えることができるのは、実は教師ではなく親だと思います。
まず大人が変わらなければならない。「教育とは何か」を大人がもっと勉強した方がよいと思っています。
子どもを持つ人が、教育の在り方から社会を考え、教育に対する感度を高めることで、日本の社会が変わっていく。そうなると良いなと思っています。

——「子どもを脱植民地化する」という言葉が前編にありました。その一方で、保護者や文科省、社会などから、効率主義的な要請や言説が根強くあります。それに対して、どのようにお考えでしょうか?

古屋 学校として輩出したい人材像という議論もあるかと思いますが、それこそが型にはめるという危険性を含むという考えもあります。
現在だとAIの世界で活躍するとか、注目される人物像というのはあると思いますが、それを目指して型にはめた人材育成をしても意味はない。
AI の世界に魅了される生徒は多分いると思いますが、生徒が自らの興味を進める中で技術的な魅力だとか、魅力的な人材が集まるとか、自分で気づいたときに自分でその進路に邁進する力が最大限発揮されるわけで、学校がそこに導くものではないですよね。

社会からの要請に合致する人というよりも、中高の教育は人間の土台づくりだと考えています。生徒は希望の大学受験に失敗してもまったく悲壮感なく「来年頑張ります!」と言っていたりします。それは、高い偏差値を目指したというよりも、自分で考えて自分の行きたい道がはっきり見えているからだろうと思います。
18歳の意識調査[*1]で、「日々の生活が楽しい」という項目があって、日本の平均は66.9%(2024年度)ですが、ドルトンは97%でした。学校としては、それがひとつの正解なのかなと。

神谷 対話が必要なのだと思います。保護者との関係においては、ただ権威に委ねる話をするだけでなく、日々の様子を見てもらいながら、子どものことを一緒に理解するように努めます。
例えば、コロナ禍では、保護者の方にお1人ずつ1日学校にいて良いという参観の仕方にして、立ち話をしながら子どもの姿を共有していくと、教師の言葉に実感を持って聞いて下さることがありました。
それ以外にも、一緒にプロジェクト活動をしたりすることで、学校の教育方針や理念を理解してもらう。実際に見てもらうことを通じて、意識を共有することで、共に子どもを育てるという関係を築いていくことが大切だと考えています。

それと、子どもの脱植民地化に向けていうならば、「子どもと『てつがく』する」という経験があるのも面白いと思います。「てつがくする」とは、哲学を学ぶのではなく、「当たり前を問い直す」という行為を言います。例えば、道徳なら「友達には優しくしなければならない」となりますが、「てつがく」では「どうして友達に優しくするのか」「そもそも優しいとは何か」ということについて問います。

子どもたちと「てつがく」すると、自分には考えつかないような独創的な考えや問いがどんどん出てきます。
私の授業を見に来てくださった哲学者の方が興奮しながら「あの発言はハイデガーの言っていることと一緒だ」と言っていたことがありましたが、子どもたちの発言にはたくさんの驚きや気づきを与えてくれるものがあります。
私もその1人ですが、子どもの発言を聴いて、大人が子どもの存在についての考え方を見直すことが問われていると思います。
つまり、子どもが大人より劣っている存在だという考え方を問い直し、子どもから学ぶという姿勢を持ちながら、自分とは異なる1人の他者として子どもをリスペクトして関わる大人が増えていくことが、そうした効率主義的な要請に対する問い直しにつながるのではないかと考えています。

——年齢に関係なく子どもたちと遊んだり、何かを創ったりする中で自信とか生きていく力につながる学び方が得られるようなプログラムや場づくりができると良いですよね。学校だけではなく、企業も一緒に参加して、学びの場を開放していきたいと思いました。

古屋氏(左)と神谷氏(右)

*1 日本財団18歳意識調査「第62国や社会に対する意識(6カ国調査)」

(2025102日、日本総合研究所 社会価値共創スタジオにて 文・特記なき写真:有岡三惠/Studio SETO)

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