インタビュー
学校を社会に開き、地域で学ぶ場をつくる(後編)
Date: 2026.03.10 TUE
#ソーシャル
#地域共創
#初学者
|
人生が旅だとするならば、地図がすぐに変わってしまう時代である。予定していた目的地がいきなり消滅する、地殻変動によりルートが変わってしまうようなことが知らぬ間に起こっている。不安を原動力に、寄る辺を求めた結果、学歴の再生産と未来の準備に子どもたちの時間は消費され、遊びの時間は縮減している。このままでいいのだろうか。 |
話し手:
井内聖(安平町教育委員会教育長 学校法人リズム学園 学園長)
菊田隆一郎(北海道大学 産学・地域協働推進機構 社会・地域創発本部 産学連携研究員)
企画・聞き手:
山本尚毅、瀬名波雅子(日本総合研究所)、岡本めぐみ(三井住友フィナンシャルグループ)
菊田隆一郎氏(左)と井内聖氏(右)
企業が求める人材と学校教育はマッチしているか?
企業が期待する未来から逆算して、現在の子どもたちを見るというのは、とても罪深いことだと思います。企業や社会と学校がどう関わっていくのか、大きな課題だと感じています。(菊田)
——前編で「チームとしての学校」という話が出ましたが、菊田さんは先生ではない研究者の立場で毎日高校に通っています。どのような役割を担っているのでしょうか。
菊田 親でも先生でもない「第三の大人」として、学校に居座り、進路の話を中心に、生徒の考えに耳を傾ける役割です。対話をすることで、生徒たちが自分の将来を考える時に気づかぬうちに抱えている、自分自身や社会に対する思い込みを指摘し、そこから生徒を解放していくことが、私の仕事です。
子どもたちは今、変化が激しく、寄る辺のない世界を彷徨って生きています。「正解めいたもの」を提示してくる大人たちに対して、評価されるために表向きでは忖度して迎合しますが、根底では信頼せず、内なる闘争を抱えています。
子どもたちの思考は、私たち大人が思っている以上にはるかに複雑で、理解するのが難しい。私も含めて、現場の先生方は大変苦労されています。
例えば、現在私が通っている学校の中には、高校からの推薦で就職しても2~3年で辞めてしまうというケースが、近年急増しているといいます。でも先生方はその理由が分からないと言う。大学進学の場合でも、生徒の進路意思を理解するのに悩む先生方は多いです。最近は、学力試験だけでなく、志望理由書を用いた総合型選抜が増えていますが、その分、生徒本人も自分がなぜその学校に行くのかを、これまで以上に深いレベルで理解し、記述できないといけません。
生徒を理解するのが難しい時、基本的には、時間をかけて対話を重ねていくしかありません。
私の場合、生徒との一回の面談時間は1~2時間が普通で、それ以上になることもよくあります。でも学校の先生方は、教員給与特別措置法の関係で、「生徒との面談に時間がかかってしまった」というのは、勤務時間の延長として認められません。もちろん、勤務時間内で行うのが望ましいですが、そうであってもやはり、先生が生徒の話をじっくり聞くことは、今の教育環境では難しいでしょう。
井内 進路に関して言うと、根本的な問題として、学校で教員がやること、やらなければならないことと、企業側が求めている人材のミスマッチがあります。学校は入試があるから化学式と二次方程式を教えなければならない。つまり処理スピードを上げ、暗記の量を増やすことが学校では求められます。
でも社会に出たら確かに処理スピードと暗記量も必要だけど、それ以上に求められるものがありますよね。
菊田 企業から見る子どもの成長と、子どもが感じている自身の成長の仕方に大きなズレがあるのではないかと感じます。
例えば将来A社に就職することをゴールにすると、A社で活躍する人間像から逆算し、その差分をとって○○力をつけることが必要になり、A社に向かっていくために自分の人生を仕上げていくことになります。
「A社に就職するならIT スキルが必要で、それを学ぶなら理系だ」というように、採用担当者、つまり大人側の眼差しに自分を適応させようと、暗示をかけていくわけです。
でも、子どもの実態に照らし合わせて考えれば、子どもたちは一人ひとりが「どんぐり」のような存在で、あっちかな、こっちかなと、いろんな方向にコロコロ転がりながら、A社に就職するという選択肢にたどり着くわけです。
そこには、目的から逆算された論理的な筋立てが無いほうが多くて、揺れ動く中で少しずつ自分を見出しているのが実情です。
にもかかわらず、採用面接では、あたかもA社に就職するというゴールに向かってまっすぐ自分が向かってきたことを、採用担当者にむかって証明することが求められる。
このギャップが、子どもたちを苦しめているのではないかと。企業が期待する未来から逆算して、現在の子どもたちを見るというのは、とても罪深いことだと思います。企業や社会と学校がどう関わっていくのか、大きな課題だと感じています。
井内 もしも、企業がすべて目的志向になっていることが、日本の産業界の中での新たな発想や異業種連携の足かせとなり経済成長を停滞させているのだとしたら、教育が変わることで何か新しい潮流が生まれるかもしれませんね。前半でも企業と学校の話をしましたが、近年全国にできている面白い思想をもった学校と企業が連携すると、何か企業側にメリットが出るかもしれません。
主体的に遊ぶ力を養う
遊びとは、主体的に面白がることだと思います。(中略)。その延長線上に勉強も進学も仕事もあるから、自分が面白いと思えることをやればよいのではないかな。(井内)
——将来から逆算し、目的と手段の構造の中にいる方が居心地良い場合もありますよね。でも、目的のための手段ではない遊びも大事だと考えています。
井内 すごく共感します! 幼児教育に携わっている立場からすると、その子が死ぬまでずっと自分らしく楽しく生きてほしいわけです。そうすると、機能合理性や経済合理性の中にある人生というのは、少し違う感じがしています。
当たり前ですが、人間死ぬまで生きるじゃないですか。65歳の定年をすぎて30年生きるとしたら、今企業が求めている力よりも「遊ぶ力」が大切になってくると思います。
それで安平町では遊びを大切にして、死ぬまで遊べる環境を作ろうと、「あびら教育プラン」を発表しています。今年からは、50〜60代の子育てが一段落した世代が遊べるような取り組みをしています。
はやきた子ども園には、65歳以上のシニアクラスがあります。高齢になると体が不自由になって病院に行ったり介護サービスを受けたりすることがありますが、「元気だと行く場所がない」という声があって(笑)。
今は定員の15人が満員です。子どもたちと遊んだり、ハロウィンの飾り付けをやったり、ただおしゃべりしていたり、日向ぼっこしたり、お昼になったら給食を食べて帰る。皆さん楽しいと言ってくれています。
菊田 年代関係なく遊ぶ力を身に付けると、ずっと幸せに生きられるということですね。
教育の役割というのは、未来にある目的を達成するために現在を犠牲にするのではなく、今あるものを作り変えて楽しむ力を養うことなのかもしれませんね。その根底に遊びがある。
井内 私の考える遊びとは、主体的に面白がることだと思います。
AIが発達した現代では、楽器が弾けなくても音楽がつくれたりします。
だから、「できること」の価値が下がって、「できないこと」の価値が高まっている。この「できない」というのは、「やりたいけど、できない」という意味で、やりたいという主体性がそこで生まれるからです。その「やりたい」が面白がる力につながります。
その力を持てたら、例えば単純作業でも効率よくやるとか、きれいにできないかなど、面白がる視点が生まれます。その延長線上に勉強も進学も仕事もあるから、自分が面白いと思えることをやればよいのではないかな。
菊田 「面白がる」を言い換えると、自分の身の回りにある環境から学ぶことだと思います。
私は高校で「総合的な探究の時間」を指導することがあるのですが、よく生徒達にお互いの考えについて質問し合う時間を取ります。
しかし、「お互いに何か聞きたいことありますか?」と投げかけても、まったく反応がありませんでした。人に対して問うということは、まさに相手の考えを面白がることの1つだと思っていたので、驚きました。相手に興味を持ち、面白がって聞くことは難しいことだと認識したわけです。小さい頃はみんな「これは何?」と問うことができたはずなのに、どうしてそれができなくなるのか、井内さんのお考えを伺いたいです。
井内 対人と対物では違うと思います。対物はどういう仕組みでできているかとか、世の中を知ることなので聞きやすい。けれども対人の場合はそれと違って、その人への興味関心がないと問えないですよね。
相手を理解するという距離感をもって人生を送ってきたか否かに左右されますよね。
——主体性に関わる質問ですが、子どもが学校の意志決定に参加することについてはどうお考えでしょうか?
井内 私自身は、子どもか大人かということはあまり考えてなくて、参加したい人が参加したらいいんじゃないかと思っています。
子どもか大人かというよりも、当事者かどうかですよね。例えば授業の当事者は生徒だから、当事者の声は聞いた方がいい、とか。
菊田 多くの生徒に接していると、学力差もあるし経済的なレベルも全然違うけど、本質は一緒かもしれないと感じるようになりました。置かれた状況を超えた人間としての共通項がある。それは子どもと大人の間でも言えるので、年齢による区別をなくして等しく敬意を持てば、本当の意味で子どもの意志を迎え入れることができるのではないでしょうか。
井内 「判断は経験、決断は勇気」という言葉を私はよく使います。判断することと決めることは別で、決定はだれでもできるけど、判断は経験値によって精度が変わってきます。
ようやく歩けるようになった1歳児が段差を乗り越えるときに転んだとします。乗り越えようと決断をして行動をしている。でも転んでしまうのは、自分の体に対する経験値が足りないという判断精度の問題です。でもそれは問題ではなく、それを積み重ねて成長していくわけです。
早来学園は、学校の名前も制服も子どもたちの意見を聞いて決めました。その時に私たち大人は、子どもの意思決定を大人の意思決定にしようと決めていました。つまり、子どもに最終決定の権利を渡すのではなく、大人が判断した決定になっているということです。
そうすることで、大人も責任が持てる。なぜそういうことをしたかというと、意思決定のプロセスに関わることが、当事者性を高めることになるからです。
子どもの意見を聞くと、判断精度が低いものが出てくるときがあります。その場合、その判断は修正されることがあり、「自分が言ったことを大人は聞いてくれなかった」となるけれど、それは違う。そういう時に決断と判断は別だという意味で「判断は経験、決断は勇気」という言葉を使っています。
もう1つ、主体と客体の話をよくします。
授業中に寝ている生徒は主体性がないと見られるかもしれない。でもその子は休み時間に友達を誘ってバスケットボールをしている。その時は強い主体性があるわけです。つまりその子に主体性があるかどうかという問題ではなく、ある客体に向かって主体性が発揮されるかどうかの問題です。前向きに発揮されるか後ろ向きに発揮されるかは、客体の問題。ただその客体が何かは分からない。
これはさきほどの理解の話にもつながりますが、自分自身がその子の中に入って何を見ているのかを探っていかないと、どのような客体に興味を持つかが分かりません。この客体ならば主体性が発揮されるということが分かれば、それに沿ったものを用意しようという発想ができます。そうするとその子は負荷なくその子らしさを発揮できる。
その子らしさが発揮されるプロセスの中で、決定のプロセスにも参加すれば当事者性が増し、興味のある客体との関係が強くなって自走し始める。それが今まで私が経営していた学校法人のやり方です。
菊田 大人でも、遊びを重視して当事者性を持って働いている人と、そうではない人がいます。その分かれ目は教育の段階、つまり学校にあるのでしょうか。
日本には、成績に応じてクラスが分かれている高校が多くありますが、学力上位のクラスにいると、勉強にまっすぐ向かっていくように方向づけられ、そこでは遊びながら当事者性を持って生きることを学ばないで育つことがあります。大学に行って、企業に入って、その優秀なチームで働くとなると、遊びを知らないままずっと生きていることになります。そうなる手前の段階で、そうではない生き方を示すことが大切だと思います。あびら教育プランは、そういうことを目指しているのでしょうか。
井内 人が育ったり学んだりする場が学校だけだとすると、教師にとっては恐怖ですよね(笑)。
実際に生徒たちは学校の数時間は適当にやって、放課後を充実させたりしています。だから放課後もいろいろなことができるように早来学園はデザインをしています。地域開放図書館のまなびおは当然開放していて、放課後は子どもたちが来て、司書さんやいろんな大人と交わったりしています。はやきた学園の方に行っておやつ作りでお金を稼ぐ子もいる。
そういった場と機会を用意しておけば、あとは子ども自身の主体性の中で学ぶことができます。
つまり、学校教育を変えれば子どもが変わるわけではないというのが私の考えです。安平町では、学校だけでなく、子どもも大人も一緒に学べる環境をつくっていきたいです。
左から山本氏、岡本、井内氏、菊田氏、瀬名波氏
(2025年10月24日、安平町立早来学園の地域開放図書館「まなびお」にて 文・特記なき写真:有岡三恵/Studio SETO)
